「桶狭間の戦い」は1560年5月19日に、織田信長が自軍の10倍もの兵力を誇り当時「海道一の弓取り」と称された駿河・遠江・三河の三国を支配する大大名・今川義元を打ち破り、天下統一に向けて日本史が大きく動いた有名な戦いです。

この記事では、「桶狭間の戦い」激戦地の場所や「今川義元」や「井伊直盛」などの有名武将の討死の真相と討死場所などを紹介します。

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「桶狭間の戦い」の通説と真実

「桶狭間の戦い」は、日本3大奇襲のひとつとされており、従来から迂回奇襲作戦により自軍の10倍もの今川軍を粉砕して全軍退却に追い込んだ奇襲戦であったことが通説としてあまりにも有名です。

 

快進撃を続ける今川義元は上機嫌でした。そこに地元の農民が激励と称してと酒や食べ物を今川勢に振舞ったのです。

すでに織田軍を散々に叩いていた今川義元は、勝利を確信して宴を催しました。

都合よくにわかに豪雨が叩きつけ視界が悪くなる戦地。

今川義元の油断と雨による視界不良を味方につけた織田軍は、今川勢に奇襲をかけ、今川義元を討ち取った。

 

というのが通説ですが、これはフィクションであるらしいのです。

 

では「桶狭間の戦い」の真実はどうなっているのでしょうか?

「信長は中島砦より桶狭間の丘陵に着陣する義元の本陣に正面攻撃を敢行」との「信長公記」(織田信長の側近・太田牛一が生涯にわたり書き留めた織田信長の一代記で信ぴょう性が高いとされている)に基づく信長の「正面攻撃説」が真実の新説として有力となっているのだそうです。

実は、今川軍は確かに大軍であったのには間違いないのですが、その軍勢は、各地に散らばり桶狭間に向かう軍勢は信長軍の2倍ほどだったのではないかといわれています。

しかも、今川軍は駿河からの遠征。

その中には物資の運搬などを行う非戦闘員も含まれていることは間違いない。

さらに戦闘員の方も遠征の疲れが出てきていたであろうことは想像できます。

それならば、信長軍の2000の兵力でも十分に勝ちは期待できますね。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/okehazama-sinjitu.html

今川義元の油断と天候の急変にかけた一か八かの奇襲戦法ではなく、知将としても名高い織田信長の読みが当たった作戦勝ちというところですね。

 

「桶狭間の戦い」の通説と真実を比較すると下のようになります。

通説

  • 戦法は迂回奇襲種作戦
  • 連勝に気を良くしている今川義元に織田信長が密かに酒を振る舞い油断を誘う
  • 突然の雨で視界が悪くなったことを利用して、今川軍の側面に迂回し、今川義元の本陣を急襲した。

真実

  • 戦法は正面攻撃
  • 今川の軍勢は各地に散らばっていたので、桶狭間に展開した織田軍は今川軍の2倍程度
  • 今川軍は駿河からの遠征のため、物資輸送の非戦闘員が多く含まれ、戦闘員も遠征で疲れていた。
  • そのため織田軍と今川軍の戦力は拮抗していた。

「桶狭間の戦い」の激戦地の場所を紹介

真実としては今川軍と織田軍の正面衝突となった「桶狭間の戦い」の激戦地の場所を紹介していきます。

下で紹介している「桶狭間の戦い」の場所をこちらのgoogle mapにまとめています。

主戦場跡は2説あり!真実はどちら?

実は「桶狭間の合戦」の主戦場として伝わっている場所は2箇所あります。

どちらも古戦場の一部ではあるようなのですが、諸説あって確定はできていないそうです。

戦国自体の有名な戦場ということで、観光資源としても貴重なので、どちらの主戦場候補地も譲らず、名古屋市と豊明市の間でバトルも起きているようです。

そんな桶狭間の戦いの主戦場跡地をそれぞれご紹介します。

桶狭間古戦場公園

一帯が桶狭間の戦いの中心地と地元で伝えられており、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地という説があります。

地元では、田楽坪(でんがくつぼ)とも呼ばれています。

合戦から450年目の2010年に整備され、織田信長と今川義元の銅像が立ち並んでいます。

その他に、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉などがあります。

桶狭間古戦場伝説地

桶狭間古戦場跡の向かいには高徳院があり、こちらでは、ここが今川義元公の本陣跡という説を採用しています。

また、義元公が討ち取られた最後の場所という説があります。

現在は桶狭間古戦場公園となっており、公園内には今川義元公の墓や杜松の木・首洗いの泉などがあります。

その他の古戦場

主戦場の周辺には古戦場が点在しています。

高根山

今川軍の先陣隊が布陣していた場所です。

高根山から幕山にかけて松井宗信が率いる約1,500名の兵が陣取っていました。

巻山

こちらには井伊直虎の父・井伊直盛が約1000名の兵と共に陣取っていました。

七ツ塚

勝利を収めた織田信長に命じられ、村人はこのあたりに七つの穴を掘り、戦死者を埋葬したと伝えられています。

釜ケ谷(信長坂)

桶狭間に進軍した織田信長軍が、荒天の中、おけはざま山の今川本陣への突撃の機会をうかがっていたと伝えられている場所です。

現在は大学の構内にあります。

おけはざま山

義元の本陣があったと伝えられている場所です。

「信長公記」には、「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と記されています。

瀬名氏俊陣地跡

今川義元の家臣瀬名氏俊が、先発隊としておけはざま山に本陣を設営するために陣取った場所です。

長福寺

桶狭間の戦いの後、信長がこの寺の境内で義元や配下の武将の首検証をした場所と伝わっています。

戦評の松

今川義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊が、軍議を開いた場所と伝わっています。

高徳院

義元の本陣があったと伝えられているもうひとつの場所です。

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「桶狭間の戦い」今川義元討死の真相と場所

織田信長の軍勢に急襲された今川軍は織田軍と乱戦となりました。

『信長公記』によれば、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。

義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。

『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。
Wikipedia

 

今川義元といえば、公家かぶれの優男のイメージが付きまといますが、絶体絶命の最中でも追っ手を返り討ちにし、首を打たれながらも相手の指を喰いちぎるという勇猛さを見せています。

さすが「海道一の弓取り」と呼ばれた武将だったようで、イメージとは裏腹に勇猛果敢な武者というのが真実の姿なのかもしれません。

 

今川義元が討死した場所は、「桶狭間古戦場公園」内、もしくは「桶狭間古戦場伝説地」のいずれかでであるようですが、どちらが真実の主戦場かは決着がついていないようです。

いずれの場所も本陣と伝わる場所からほど近く、織田信長急襲の後、いくらも逃げることなく討ち取られたのでしょう。

「桶狭間の戦い」井伊直盛討死の真相と場所

井伊直盛は「桶狭間の戦い」に先陣として出陣し、巻山に陣取っていました。

『井伊家伝記』では、今川義元の重臣が全て討死か追腹(主君を追って切腹すること)したので、井伊直盛も自分だけ逃げるわけにはいかず、奥山孫市郎に遺言と介錯を託して追腹をしたとあるそうです。

井伊直盛討死の真相は、今川義元の後を追っての自殺というのは意外ですね。

今川家と井伊家の間にそれほどの主従関係があったのかは疑問ですが、華々しく奮戦しての討死ではなく、作法を守って死んでいく井伊直盛の姿は、歌や花道を愛した一級の文化人であった井伊直盛らしいといえばらしいですね。

 

討死の場所は明確な情報を見つけることができませんでしたが、粛々と追腹を切ったということで、陣地の巻山の可能性が高いのではないかと思います。

この時、16人の家臣が井伊直盛と共に死んでいます(討死か追腹かは不明)が、その中には小野但馬守政次の弟である小野玄蕃も含まれています。

まとめ

日本三大奇襲戦の一つ「桶狭間の戦い」の真実と激戦地の場所や今川義元と井伊直盛討死の真相や場所についてまとめました。

450年も前の戦争の場所ということで、主戦場についてはふたつの場所が候補地として伝わっており、その争いに決着はついていません。真実を伝える新しい証拠が出てこないと決着は難しそうですね。

また、「桶狭間の戦い」の真実は、織田信長の迂回奇襲戦ではなく両軍の正面衝突であったらしいとして通説が見直されてきているようです。

さらに、井伊直盛は討死ではなく追腹による後追い自殺というの真相のようですね。

歴史は調べれば調べるほど、真相や真実が出てきます。本当に飽きないですね。

皆さんもぜひ「桶狭間の戦い」の古戦場巡りをして乱世に思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。

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