日本ラグビー界の至宝 平尾誠二監督ご逝去のニュースが飛び込んできました。53歳という早すぎるお別れとなりました。

しばらく前から体調を崩されていたようで、激痩せされた姿を心配する声が上がっておりましたが、本当に残念なことです。慎んでご冥福をお祈り致します。

日本ラグビー界を文字通り牽引されてきた平尾誠二さんの業績をまとめてみました。

プロフィール

生年月日: 1963年1月21日 (享年53歳)
京都府京都市南区出身。
身長: 180 cm
学歴:伏見工業高校、 同志社大学商学部卒業
同志社大学大学院政策科学総合研究科(修士課程)修了
現役時代のポジションは主にスタンドオフ

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中学・高校時代

中学入学と同時にラグビーを始め、伏見工業高校で山口良治監督のもと、高校3年時にキャプテンとして全国高校選手権大会(花園)で優勝に導きます。

スクールウォーズ

平尾誠二さん在籍時の伏見工業高校を基にしてテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」が制作されたことは有名ですね。

ドラマの中では平尾誠という役名で、俳優の四方堂亘さんが演じていらっしゃいました。

実際に伏見工業高校は荒れていたそうですが、そこから僅か数年で全国制覇を成し遂げたそうです。ドラマの最終回で全国制覇の決勝戦が描かれているが、スコアも試合展開も全て同じに作ってあるそうです。

81年の花園制覇の時の伏見工業高校のキャプテンが平尾誠二さんでした。
花園優勝の時はすでに卒業されていたそうですが、ドラマで松村雄基が演じていた準主役の大木大介のモデルとなった大八木淳史さんも伏見工業出身です。

平尾誠二さんと大八木淳史さんは、高校卒業後も同志社大、神戸製鋼、日本代表とラグビー人生を共にしていきます。

同志社大学時代

同志社大学ラグビー部在籍時代にはスタンドオフとして岡仁詩ラグビー部部長の指導のもと、史上初の大学選手権3連覇を成し遂げます。82年には史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出されました。

大学卒業後、1986年には英国リッチモンドに留学しています。
デザイナーの勉強をしようと思っていたそうです。
日本でラグビーを続ける気は無かったそうですが、知人の説得で同志社大の先輩が多かった神戸製鋼へ入社します。

神戸製鋼時代

平尾誠二入社当時の神戸製鋼は、スター選手が揃いながらも優勝できない「万年優勝候補」と言われていたそうです。

その状況を打破するために監督生を廃止し、主将が中心となるラグビー部運営を初めていましたが、結果が付いてきていませんでした。

平尾誠二は入社3年目にして首相に抜擢。ラグビーの本場イギリスで得た知識を活かしてチームを引っ張り、日本ラグビー界の固定概念を覆すような指導をしていきます。

また今までのような無意味に毎日やる練習を廃止し、「楽しんで上達する」練習を実践しました。
ラグビーのようないかにも精神論が横行しそうな世界で、いち早く練習の効率化と楽しむことの意義を理解し、チーム運営に取り入れた先見の明に頭が下がります。

その結果として、神戸製鋼は88年に初優勝し、その後に新日鉄釜石と並ぶ7連覇を成し遂げたのです。

また平尾誠二さんがゲームキャプテンを止めた試合で負けたのは一度だけという凄まじいキャプテンシーを発揮しています。

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ラグビー日本代表

日本代表として、ラグビーワールドカップ第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)に出場しています。

特に91年の第2回大会ではキャプテンを務め、日本をワールドカップ初勝利に導きました。

その後一度は代表を引退されていますが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、その後代表選手として本戦に出場されています。

指導者 平尾誠二

現役引退後は、1997年から2000年まで、日本代表監督を務められています。
監督就任後、1999年のワールドカップにチームを導きます。

また神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーを歴任されました。

近年では、日本ラグビーフットボール協会理事を務められ、2019年ラグビーワールドカップ日本大会の成功に向けて尽力されていたようです。

まとめ

近年、五郎丸選手らの活躍によりラグビー人気が盛り上がっていますが、それも平尾誠二さんたちの世代が、低迷していたラグビー人気を盛り返して、現在につなげたという経緯があると思います。

人生を日本ラグビー界に捧げてきたミスターラグビー平尾誠二さんの名に恥じない日本ラグビー界の興隆と2019年ラグビーワールドカップ日本大会の成功を祈りつつ、再度、故人の冥福をお祈りしたいと思います。

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